萩原宿から宮宿へ

                                  (5)萩原宿〜稲葉宿

   天神の渡し跡の碑を横目に萩原宿に入る。
   問屋場跡の碑には気付いたが本陣跡、脇本
   陣跡とも見過ごしてしまった。
   この宿にも古い家並みが見られる。
   足早に名鉄尾西線を越えて稲葉宿に到着し
   た。(左写真は萩原宿)



    

     
 天神の渡し跡     問屋場跡

萩原宿では上と下の2名の問屋が交替
で職を勤めた。ここは上の問屋場跡である。

                 

                 

                                    (6)稲葉宿〜清洲宿

   起宿からこのあたり一帯は古代尾張国の政治
   ・宗教の中心で江戸時代の中期頃から尾張随
   一の綿織物の産地となった。
   ここはさすが大きな宿場町、立派な古い家が
   多く目に留まる。津島道道標を過ぎ古めかし
   い家の前に建つ問屋場跡の碑に見入る。
   今日の行程はこのあたりまでということにし
   て、最寄りの名鉄名古屋線の「国府宮駅」へ
   出た。今夜の宿は特急で5分の「新一宮駅」
   前にある。

   11月14日(日) 曇り
   国府宮駅」から昨日の続きを歩く。まず街道
   の「一の鳥居」からは随分奥まった「尾張大
   国霊神社」に立ち寄り、いつものように今日
   一日の旅の無事を祈った。
   秀吉五奉行の一人、長束正家邸跡の碑がいま
   畑の中に残る。岐阜街道「四ッ家追分」には
   碑のみで、その道標は少し先へ行った長光寺
   門前に移されている。

         
  津島道道標

ここから南への道が津島方面へ通じていた。
   問屋場跡

稲葉宿には小沢、東町、西町に3軒の問屋場
があり、ここは東町宿役人伊東氏の住居跡で
ある。
   尾張大国霊神社鳥居

この鳥居のはるか先に見えるのが尾張大国
霊神社。一の鳥居はさらにこの手前に
建っている。
         
尾張大国霊神社

崇神7年の創建と伝えられる。鎌倉時代には
貴賤の信仰を集め「尾張国総社」と称され、江戸
時代には「国府宮」と呼ばれるようになった。 
    長束正家邸跡碑

長束正家は安土桃山時代の武将で、丹羽長
秀次いで豊臣秀吉に仕え、五奉行の一人と
なる。近江水口を領し、関ヶ原合戦で西軍に
属し敗れ、自刃し果てた。
    四ッ家追分の碑

岐阜街道との追分で、岐阜街道は尾張藩
が管理したここから一宮を経て岐阜に至る
6里半の街道。
         
  四ッ家追分道標

「右 ぎふ道 左 京都道」
       



                                                     



                                     (7)清洲宿〜名古屋宿      

   清洲古城跡の案内板でこの城の沿革を知り、
   新しい清洲城を見学した。
   正覚寺門前に自然石に彫られた道標がある。
   元は須ヶ口一里塚にあったもので一里塚は少
   し先だった。
   端正寺には高さ4.5m、日本一高いという
   宝塔がある。尾張藩で処刑された者の菩提を
   弔い建てられた。
   この宿から名古屋へかけて屋根神様といって
   屋根の上に神社形式で神を祀った家があるこ
   とに気付いた。この地方独特のものといわれ
   る。
   庄内川の橋詰めに文政10年(1827)建
   立された西枇杷町の道標がある。この川を越
   えれば名古屋市となる。







         
  清洲古城跡

尾張の守護代織田敏定が守護所をここに移
し以来150年間、清洲は尾張国の中心と
なった。一族の内部抗争に打ち勝った織田
信長が入城したのが弘治元年(1555)、信
長はここから天下統一の事業に乗り出した。
その後家康が名古屋を尾張国の拠点とする
まで清洲は尾張国随一の城下町であった。
のちに清洲越しといわれる名古屋への”五
十町”の住民・建物全ての町ぐるみ引っ越
しが行われた。
   清洲町並     元須ヶ口一里塚道標

「北 みのかいとう 南無阿弥陀仏 
是より 西つしまかい道」
         
 須ヶ口一里塚跡

塚は用水の改修であとかたも無くなったと
後ろの案内板に書いてある。
    端正寺宝塔

高さ4.5mで日本一高い宝塔という。昔
この近くに尾張藩の処刑場があり、2人の
熱心な法華教信者が、そこで亡くなった人
たちの菩提を弔うため宝塔を建てることを
発願したという。裏面には「文化十年
(1813)癸酉歴五月建」と彫ってある。
    西枇杷町の道標

「東 にしハ つし満てんわうきよす宿みち
西 飛かしハ とうかゐだうなごや道  
南 文政十年丁亥七月吉日       
北 いわくら道」               
文政十年は西暦1827年で、旧枇杷島橋
小橋のたもとに建てられていたもの。
         
  庄内川

正面は名鉄線鉄橋。
       

      



                                     (8)名古屋宿〜宮宿

   枇杷島橋跡を過ぎ、白山神社は街道から一礼
   する。信長が桶狭間の戦勝を祈願した神社。
   行く手に名古屋城が見えてきた。昨年訪れた
   ばかりだが折角だからもう一度寄っていこう
   と2時間ほど時間を費やした。
   再び美濃路に戻り、今度は一本横道の四間道
   (しけみち 写真)を通る。この道は古い家
   並や附近の立派な屋根神様も見られて観光コ
   ースとなっている。
   これからが大変だった。広い賑やかな町通り
   を宮宿近くまで延々と歩くのみ。僅か6Km
   程度の道のりだが3日間の疲労がここへ来て
   出たのか、足が重い。名古屋城でゆっくりし
   すぎたようだ。源頼朝生誕地(誓願寺)にも
   熱田神宮にも立ち寄らずひたすら終着地へと
   急いだ。
   道幅の広い国道1号の陸橋を渡る。ここは国
   道19号、22号の起点にもなっている。 
   七里の渡しに午後4時到着。やがて夕焼け、
   旅の余韻を楽しむには最適な光景だった。
                                  

       
  枇杷島橋跡

庄内川を渡った少し先にあった
    白山神社

清洲城に移った信長はこの神社に戦勝を祈願
し、今川義元を桶狭間の戦いで破った。凱旋
したのもこの街道という。
    江川一里塚跡

宮宿から数えて2ッ目の一里塚がこの
あたりだったという。今は駐車場になって
いて何も残っていない。
         
  七里の渡し

宮宿は熱田神宮の門前町、東海道はこの渡
船場から街道唯一の海路で桑名宿へ向かっ
た。その距離が7里(約28Km)だ。この宿に
入った参勤交代の大名は42国、146家に
のぼり、旅籠も東海道中最多で248軒の多
きを数えたといわれる。かつての栄華を偲ん
で、しばらくは美濃路のフィナーレにふさわ
しい夕暮れに時を忘れてたたずんだ。