神社・仏閣  2.本庄宿から岩村田宿へ
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 宿駅のデータは「中山道宿村大概帳」による。人口は天保14年(1843)調査。

支蘓路ノ驛本庄宿 神流川渡場 英泉画
人口 4,554人   家数  1,212軒
本陣 2 脇本陣 2 旅籠     70軒
           城山稲荷
本庄城趾の奥にある。弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠が本庄城の守護神とするため、西本庄の地から椿稲荷明神を奉斉したという。前の大きい欅は本庄城築城のときに献木されたものと伝えられ、県の天然記念物となっている。
            安養院
創立は文明7年(1475)。御嶽講の祖といわれる木食普寛上人の墓がある。上人は木曽の御嶽山信仰の御嶽教を、各地を巡り広めこの地で亡くなった。写真の楼門は見事である。
            金鑚神社
創立は欽明天皇の2年(541)と伝えられ、天照皇大神、素戔嗚尊、日本武尊を祀る。本殿は享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)、幣殿は嘉永3年(1850)の再建である。御神木のクスノキは県の天然記念物。
            陽雲寺
元久2年(1205)の創建と伝えられ、幾多の変遷を経て陽雲寺と改称された。武田信玄夫人が居住しており、その死後夫人の法号の陽雲院をとって寺号としたものである。夫人の墓のほか、新田義貞の家臣畑時能の供養塔もある。
木曾海道六拾九次之内新町 広重画
人口 1,437人   家数   407軒
本陣 2 脇本陣 1 旅籠    43軒
            八坂神社
可愛らしい土蔵造りの神社、右手の木の前に芭蕉の句碑がある。
            お菊稲荷
昔、旅籠・大黒屋の飯盛女お菊が信仰していたのでこう呼ばれたとのこと。社の前に文政6年(1823)に設けられた水屋があり、その彫刻は精巧を極めている。
木曾街道倉賀野宿 烏川之圖 英泉画
人口 2,032人   家数   297軒
本陣 1 脇本陣 2 旅籠    32軒
             倉賀野神社
創建は崇神天皇の48年と伝えられる。倉賀野の総鎮守。本殿は一間社流れ造り、元治2年(1865)造営。境内にある冠稲荷は水商売の人たちが多くお参りするとか。
           安楽寺
境内に2基の板碑(板石塔婆)があり、南北朝時代(1300年代)以前のものといわれる。板碑は鎌倉時代中頃〜室町時代に多く作られ、死者追善、生前の逆修供養のために建立した。緑泥片岩のような平板石を用い、頂を三角形に作り梵字と仏像などを彫っている。
木曾海道六拾九次之内高崎 広重画
人口 3,235人   家数   837軒
本陣 0 脇本陣 0 旅籠    15軒
         諏訪神社
小さな社殿は土蔵造り、龍をからませた鳥居を貼り付けているのが珍らしい。火災から社を守るためらしい。小さい乍らも周囲は見事な彫刻で飾られている。
            大信寺
三代将軍徳川家光の弟である駿河大納言忠長の墓がある。忠長は父秀忠に愛され駿府城にあって55万石の禄高を有していたが、父の死後数々の乱行があったとの理由で寛永8年(1631)甲府、翌9年高崎に幽閉され自刃を命ぜられ10年に28歳で生涯を終えた。
             常安寺
山門の額「八幡山」の脇に書かれている滕煥図篆(とうかんとてん)は荻生徂徠の門人東野の名、壬戌はどういうゆかりで書かれたかと記している。
            達磨寺
元禄年間近くの碓氷川中で発見した香木から行者一了居士が達磨大師の座禅像を彫って草堂に祀ったのが起こりという。元禄10年(1697)領主酒井雅楽頭は水戸光圀公の帰依した心越禅師を開山と仰ぎこの寺を開創した。
木曾海道六拾九次之内板鼻 英泉画
人口   1,422人 家数   312軒
本陣 1 脇本陣 1 旅籠    54軒
          蓮華寺
栄朝(栄西禅師の高弟)が関東行脚の折りここに野宿したところ、凍った池から突然蓮の花が音をたてせり上がってきた。この奇瑞によって開いた寺という。
          
木曾海道六拾九次之内案中 広重画
人口   348人    家数    64軒
本陣 1 脇本陣 2  旅籠    17軒
            地蔵堂
この地蔵堂の案内板によると本尊の延命地蔵菩薩像は大永5年(1525)松井田小屋城主安中忠清が故郷新発田から勧請したもので、霊験あらたかな秘仏としてなんと百年に一度ご開帳される。日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つとして善男善女の崇敬を集めたとか。
            日枝神社
創建年代は不明、明治44年(1911)再建、社殿の真ん前に神楽殿がありくぐって参詣する様式になっているのが珍しい。本社は大津市の日吉大社。
木曾海道六拾九次之内松井田 広重画
人口 1,009人   家数   252軒
本陣 2 脇本陣 2 旅籠    14軒
            不動寺
本堂(左側)の横の立派な建物は北関東36不動尊霊場第4番札所である。仁王門、参道にある板碑は県の重要文化財となっている。
       不動寺の仁王門と板碑
柿葺単層、切妻造りの仁王門は江戸時代初期の改築で、蟇股、欄間などに桃山時代の作風が残る。石塔婆は3基あり、安山岩の自然石に板碑様式の仏種子や文字が刻んである。文字には北朝年号の観応3年(1352)等が彫られてある。
            八幡宮
本殿は三間社流造り、江戸時代に建てられた。県の重要文化財に指定されている。
              補陀寺
境内に松井田城主大道寺政繁の墓がある。政繁は天正11年(1583)北条氏正の将として近くの松井田城に入り、関東の北の守りとして勢力を拡張したが、同18年、秀吉の小田原攻めに際し落城自害させられた。
            碓氷神社
猿田彦命など16神を祭神として祀る。創立不明だが碓氷峠熊野神社の分霊を戴き碓氷郷の鎮守産土神として崇敬された。明治末、近くの諸社を合併合祀し、大正に入り村社に指定された。建久年間(1190〜1198)源頼朝が牧狩のときここで祈願し御所を置いたことから、この地を御所平と呼ぶようになったという伝説がある。
             
木曾海道六拾九次之内坂本 英泉画
人口   732人    家数   162軒
本陣 2 脇本陣 2  旅籠    40軒
            熊野神社
碓氷峠にある社殿は江戸中期以降の建築。神社は三本社があって中央本宮は上信国境に、右の新宮は上州側に、左の那智宮は信州側に鎮座している。追分節に「碓氷峠のあの風車、たれを待つやらくるくると」と唄われた「石の風車」が1対ある。秋から冬にかけて吹く強風を思っての文句という。室町時代のものとされる愛嬌のある顔をした狛犬も1対ある。
        熊野神社中央本宮が県境
神社へ上がる石段前にも「上信国境」の石標があるが、中央本宮の前の扉にも写真のように白い板に「長野県側|群馬県側」と書き打ち付けてあった。
木曾海道六拾九次之内軽井澤 広重画
人口   451人   家数   119軒
本陣 1 脇本陣 4 旅籠    21軒
            
              
木曽街道沓掛ノ驛 平塚原雨中之景 英泉画
人口   502人    家数   166軒
本陣 1 脇本陣 3  旅籠    17軒
           長倉神社
天長年間(824〜834)の創建、延喜式内という。本殿は江戸時代のもの。境内に沓掛時次郎の碑があるので有名である。
         遠近(おちこち)の宮
祭神は磐長姫命、古くから鎮守産土神として崇敬されてきた。在原業平の「信濃なる浅間山の立つ煙 遠近人のみやはとがめん」という歌によってこの社の名に奉称されたものらしい。
木曽街道追分宿 淺間山眺望 英泉画
人口   712人   家数   103軒
本陣 1 脇本陣 2 旅籠    35軒
           浅間神社
本殿は室町時代のものという。大山祇神と磐長姫命を祀る。明治2年(1869)5月より浅間山の鳴動が激しく鎮静祈願のため明治天皇の勅祭が行われた社として有名になった。境内に芭蕉の句を漢字だけで大書した巨石がある。
             泉洞寺
追分宿の中程にあるこの寺左手に堀辰雄が愛した小さい石仏がある。意外にも野晒しだった。堀辰雄は大正12年(1923)軽井沢を訪ねて以来30年間静かな軽井沢の自然をこよなく愛した。
        泉洞寺の半迦思惟像
高さは40センチほど。村人には歯痛止めの仏として親しまれている。

木曾海道六拾九次之内小田井 広重画
人口   319人   家数   107軒
本陣 1 脇本陣 1 旅籠     5軒
            


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